行雲流水~きららのブログ

好きな本のことを中心に、日々の想いを書いてみる

パクる人

 「パクる」という言葉がある。ネット上ではよく見かけるんだけど剽窃や盗作とはどこが違うのだろう。AIに聞いてみたら少し違うらしいのだがよくわからない。アイデアを盗まれるとか真似されるってことなのか。40年前には「パチもん」(今でいうコピー品か?)という言葉もあった。何となく業界用語的な響きがある言葉なのかもしれない。カタカナ入りの言葉にはそういう響きがある。

 私はプラモデル製作を趣味にしているけど、プラモデルを使ったジオラマというジャンルがある(小さな土台に情景を作る)。ジオラマ作品は構図や配置など一目瞭然なオリジナリティが出やすい。例えば仮に戦車の上に犬を何十匹も載せた作品があったとしよう。それを見て「おお、いいアイデアだな」と思った人が真似して戦車の上に猫を何十匹も乗せた作品を作った。それは剽窃ではないのか?

 本人は、いやいや自分はアイデアが乏しいので参考にしただけですよと言うかもしれない。それはそれで猿真似だけど本人が楽しければそれでいい。ただ、その猿真似した作品でコンテストで賞を取ったりしたらどうだろうか。そのとき急に問題化しそうだ。著作権に似ている。「個人として楽しむ分には構いませんよ」というわけだ。

 模型雑誌に掲載された作例のジオラマをそっくり真似て同じような作品を作っている人なんて世界中にごまんといるのではないだろうか(というか参考にするために作例はある)。でもそれをコンテストに出したりすると問題が発生すると思う。それは剽窃である。

 プラモデルに限らず、他人の猿真似をしても恥ずかしくもなんともないという人はたくさんいる。それはその人の感性の問題だろう。逆に真似されたくない人は外に出さねばいい。秘密にするのも趣味の根源的な楽しみなのだから。

俺の話を聞け

私は模型を趣味にしているが、こういうホビー系の趣味にありがちなのは他人の話を聞かず自分の知識や蘊蓄を長々と話すこと。私も含めてだけれど、それが楽しくてクラブを作ったり展示会に行ったり模型屋でだべったりしているのだから、話すことを否定はしない。他人の話を全く聞かず長々としゃべる人がいても「またか」と思うだけである。

しかし、最近思うのは他人の話も結構面白いよということ。私も決して他人の話を聞くことは上手くないけれど、それでも頑張って聞いているとふとした瞬間「あっ!! 何!? 今この人すごく面白い本質的な話してない? 今までこんなことまで私には話してくれなかったよね、この話ほかの人は聞いたことないかも」と、特ダネをつかんだ記者のように興奮と喜びでドキドキすることがある。

相手に話させる技術ってあるかもしれない。そんなの当たり前のことだろって? 記者とかインタビューの上手な人とかは相手から面白い話をすぐに引き出すんだろって? それは理屈ではそうだろうなと思ってた。でも自分ではどうすればいいか、わからなかった。

そのコツのひとつはまず自分が本音を言うことではないかと気づいた。それと「私に話してもらっていいよ」という感じのスタンス。この二つがうまく重なったときに人は何かを話してくれる気がする。

同じものを見、同じ人と会っても、人は違うものを見ていると感じる。人それぞれ違っていてそれがまた面白いんだけど、どうせなら奥のほうまで見てみたいと思いませんか。

男に必要なこと

「飛ぶ教室」(エーリヒ・ケストナー著/新潮文庫/池内紀訳)を読んだ。子供の頃読んだ気がしていたが、どうやら初めてだったようだ。

少年たちの成長の物語。と文庫の裏に書いてある。その通り。

大切なのは、「道理さん」「禁煙さん」と呼ばれる大人たちの存在。二人が教えてくれるもの。それは少年にはなくてはならないもの。

多くの男たちは部活だの学校生活だのバイト先だのでそういう大人に出会い学んでいくのだろう。息子を育てていて思い当たるふしはたくさんある。

先日読んだ「珈琲と煙草」(フェルディナンド・フォン・シーラッハ著/東京創元社)の中の一節を思い出した。

「男に必要なのは三つの事柄だけだ。・・・なにかをはじめるときは勇ましく、失敗しても潔くそれを受け止め、人にはやさしくあらねばならない」

くぅ~っ、格好いいな。これだけ揃っていればいい男だ。

「飛ぶ教室」の少年たちは、道理や正義・・・正しいこととは何か、どう行動するべきか、友人を思いやるとはどういうことか、大切なことを学んでいく。それがすがすがしい。自分もまだ幼いころに戻って、もう一度こんな人に出会えたらなぁ。そういえば昔こんな友達がいたような気がする、今どうしているだろう・・・

表紙の絵や挿絵もいい。最後の訳者あとがきも必見。こういうのが書いてあるとすごく得した気分になる。ありがとう池内先生。

 

 

 

日本人だよね?

私は日本人だけど、日本人であることをそんなに意識せずに生きている。

多くの日本人がそうなんじゃないかという気もする。

日本人は日本よりも何県人かということのほうに意識を置いている気がする。「あたしが日本人って当たり前やんか、そうじゃなくて私は〇〇県人よ」みたいな。

それが言うまでもなく高校野球の熱狂とかに結び付くんだけど、「沖縄の問題」とか「福島の問題」とか「広島の問題」とかいう言葉になる。そうじゃないでしょ? 日本の問題でしょ? 

日本を愛するとか言うのは大げさで右翼みたいな感じがするのでしょうか。それは日本のことを知らないからだと思う。知ればもっと好きになる(もちろん嫌いになったっていい、そのときはどこか好きな外国に住めばいい)。私自身はこの二十年いろいろな歴史の本を読んで日本のことを知って新鮮で驚くことが多かった。生まれた国のことでありながら遠い異国のことのように知らなかった。自分を深く知ることがこんなに面白いこととは思わなかった。嫌悪感もあれば愛着感もできた。

知らずになんとなくここでいいや、という気持ちでいるから愛することもない。私にはそんな気がする。

その昔、太平洋戦争の頃は情報が少なく、皆黙って政府に従ったと言われている。しかし今はどうか。情報は多くても知ろうとしなければ全く同じではないのか。

妻の話をする男

妻や彼女の話をする男っていますよね。

もちろんそれらはフツーに話題なんじゃないのと思うかもしれませんが、男同士ならともかく、女性の前でそういう話をするときは

「俺には最愛の妻(彼女)がいますから、あなたには興味ありません、ていうか手は出しませんからご安心ください、ていうか俺を誘惑しないでね」というメッセージだと私は受け取る。

その話をほかの女性にしてみたら「それは考えすぎでしょう」と言われたけど。

バリアを張ってる気がするんですよね。これ以上近づくなサイン。

人によっては妻や彼女を紹介してくれる人もいる。これなんか決定的でしょうね。あーあ、って思います。この人私には近づきたくないんだ。興味ないんだって。聖人君子の良き夫アピール。ガッカリですね。

こんなこと書くと不倫願望かいと取る人があるけど、願望とか奨励とかではなく、男と女の間にグレーゾーンを残しておきたいんですよ。「もしかしたら」ってやつ。男性はそういうの大好きかと思ってたけどね。こと妻(彼女)となると、怖いんでしょう。

人生なんて短い。パートナー以外の異性と話す時間って貴重だと思いませんか? 私はその時間も大切にしたい。いろいろ面白い話が聞けるからね。まあでもそこに面白さを感じられるかどうかは、その人の感性なんだろうなぁ。

好きなように生きる(「珈琲と煙草」シーラッハ)

 私たちは悩んでいる人に向かって、好きなように生きればいい、などと軽く言うことがある。

 それができれば苦労はないさ。

「珈琲と煙草」(フェルディナント・フォン・シーラッハ著/東京創元社) 

 弁護士出身の作家の書くエッセイ。この中にクラシックカーを買う男の話が出てくる(著者なのかもしれない、はっきりとは書いていない)。

 「こんな平均的でつまらない、無価値な車を修復させる人なんていませんよ。こんな車じゃ転売は無理だし(中略)クラシックカーが欲しいなら、もっと格好のいい車を選んだほうがいいでしょう」と車工房で言われ、男はこう答える。

 「想定された耐用年数をはるかに超えたものが好きなんだ。この車をだれも評価していないというところがまたいい。それに転売する気は毛頭ない。これは私が乗る最後の車で、できるかぎり乗り続けたい」

 いいでしょ?  これが好きかどうかでこの本を好きかどうかも分かれる気がする。このくだりを「つまらない」と思う人は読まないほうがいい。

 同じ著者の「コリーニ事件」(創元推理文庫)にも恐らく同じ車種と思われるクルマが出てくる。思わずニヤリとしてしまう部分だが、一般的に値段が高く多くの人が価値を認めるものを好きだと思わない、そんな人を偏屈とも呼ぶが、私はそういうタイプの人が好きなのかもしれない。

 この話にしみじみと「いいなあ」と思ったりするのは、どれだけ私らが目に見えない息苦しさ、縛り、不自由さに絡めとられて生きているかという証拠でもある。自分の好きに生きればいいって? 好きにできることはものすごく限界があるし生まれてきたこと自体がすでに好きにできないことじゃないか?

 そんなとき、忘れていた喜びや幸せを思い出させてくれるもの。それは私には読書だし、あなたにはまた何か別のものがあるかもしれないね。

マスコミを罵る人たち

私くらいの年代の男性たちが口を極めてマスコミを罵っているのをよく耳にする。私は内心「いまさら」とバカにしている。今頃罵っている人たちはこれまでマスコミが書いていることをそのまま信じていたのでしょう? まずそこを認めてほしい。「自分は今までマスコミの書いていることをそのまま信じていました。それ以外のルポライターなどの労作は知らずに生きてきました」と。

太平洋戦争の頃、マスコミが国の宣伝機関となって国民に「いけいけドンドン」と戦争に駆り立てたということを知ったのは私もほんの十数年の間のことだ。驚いた。マスコミというのは、国の宣伝機関にすぎないのか。組織というものは普通の企業でもマスコミでも営利を追求する以上国の方針に逆らえないし取引先に配慮する。そのためには国にお追従して生きていくしかないのだろう。

「私の中の日本軍」(山本七平著/文春学藝ライブラリー) には著者の見聞きした旧日本陸軍の実態、そしてマスコミが新聞に発表した「百人斬り」記事への反論が丹念に書かれている。丹念過ぎてしつこいけれども反論だから仕方ない。それ以外にもさまざまな興味深いエピソードで綴られる。ご自身のことも赤裸々に書いておられる。普通の戦記だと恐らく「死んだ戦友や上官に配慮してここまでは書けない」という部分だ。

昔も今もそうだが、書いてしまったことは「真実」と受け取られても仕方がない。というか普通の人は真実だと思うだろう。私だって四十歳近くなって趣味で模型を作り始めて歴史の本をひもとくまでは「自虐史観的な考え方」であり、憲法と矛盾しているので自衛隊は違憲でありいらないと思っていた。しかしそれは何も本を読んでいなかったからである。原発や公害問題などの社会問題に関しては十代の頃からある程度の興味があり本も読んでいたが。マスコミやテレビがそれらの社会問題を掘り下げて追及しているとは思えなかった。

本当に読むべき本は何なのか、真実を書いているのは誰なのか、真実はどこにあるのか。自分で考えながら読まないと単に本に騙されることになりかねない。しかし自分で考えるということの難しさよ。これこそいちばん頭を使うことじゃないかと思う。

「日本を破滅させたのは虚報なのだ」そして虚報により本来あるはずの情報が見えなくなるのがいちばん恐ろしいことなのだと著者は言う。

耳をすまし目をこらし脳を最大限に回転させねば。マスコミを罵ってるヒマなんか私にはない。