行雲流水~きららのブログ

好きな本のことを中心に、日々の想いを書いてみる

女嫌い(その1)

長い間、女が嫌いだった。女性の友達は必要最小限、自分から努力して良き女友達を求めたことはない。話を聞いてくれるのも語り合って楽しいのも男共。そう思い込んできた。

なぜそうなのか。理由はいくつかあるけれど、まずひとつはこんなことから。

彼氏や夫のグチを聞いてもらったとしよう。男友達なら

「ひどい男やな」

「別れていいんじゃないか」

 

それが女友達だと

「あんたの選んだ男でしょ」

「ウチの夫よりマシよ」

「殴られるわけじゃないからいいじゃん」

 

総じて女性は手厳しい。そしてつい自分の境遇と比較して話してしまう、どうかすると

「それよりさぁウチの夫が~」とあっというまに話を変えたりする。

女同士というのは、常に張り合う気持ち、妬みがあるから優しい聞き相手にはなりにくい。

 

逆に男性だと優しく聞いてくれて相手の男を罵倒してくれるから嬉しい。

そこが甘い罠でもある。私が男なら女性の悩みを聞いてやるよと言っては飲み屋などに連れていき酔わせてそのままホテルに行きますね。あー簡単だ。

というわけで次回に続く。

 

男に必要なこと

「飛ぶ教室」(エーリヒ・ケストナー著/新潮文庫/池内紀訳)を読んだ。子供の頃読んだ気がしていたが、どうやら初めてだったようだ。

少年たちの成長の物語。と文庫の裏に書いてある。その通り。

大切なのは、「道理さん」「禁煙さん」と呼ばれる大人たちの存在。二人が教えてくれるもの。それは少年にはなくてはならないもの。

多くの男たちは部活だの学校生活だのバイト先だのでそういう大人に出会い学んでいくのだろう。息子を育てていて思い当たるふしはたくさんある。

先日読んだ「珈琲と煙草」(フェルディナンド・フォン・シーラッハ著/東京創元社)の中の一節を思い出した。

「男に必要なのは三つの事柄だけだ。・・・なにかをはじめるときは勇ましく、失敗しても潔くそれを受け止め、人にはやさしくあらねばならない」

くぅ~っ、格好いいな。これだけ揃っていればいい男だ。

「飛ぶ教室」の少年たちは、道理や正義・・・正しいこととは何か、どう行動するべきか、友人を思いやるとはどういうことか、大切なことを学んでいく。それがすがすがしい。自分もまだ幼いころに戻って、もう一度こんな人に出会えたらなぁ。そういえば昔こんな友達がいたような気がする、今どうしているだろう・・・

表紙の絵や挿絵もいい。最後の訳者あとがきも必見。こういうのが書いてあるとすごく得した気分になる。ありがとう池内先生。

 

 

 

日本人だよね?

私は日本人だけど、日本人であることをそんなに意識せずに生きている。

多くの日本人がそうなんじゃないかという気もする。

日本人は日本よりも何県人かということのほうに意識を置いている気がする。「あたしが日本人って当たり前やんか、そうじゃなくて私は〇〇県人よ」みたいな。

それが言うまでもなく高校野球の熱狂とかに結び付くんだけど、「沖縄の問題」とか「福島の問題」とか「広島の問題」とかいう言葉になる。そうじゃないでしょ? 日本の問題でしょ? 

日本を愛するとか言うのは大げさで右翼みたいな感じがするのでしょうか。それは日本のことを知らないからだと思う。知ればもっと好きになる(もちろん嫌いになったっていい、そのときはどこか好きな外国に住めばいい)。私自身はこの二十年いろいろな歴史の本を読んで日本のことを知って新鮮で驚くことが多かった。生まれた国のことでありながら遠い異国のことのように知らなかった。自分を深く知ることがこんなに面白いこととは思わなかった。嫌悪感もあれば愛着感もできた。

知らずになんとなくここでいいや、という気持ちでいるから愛することもない。私にはそんな気がする。

その昔、太平洋戦争の頃は情報が少なく、皆黙って政府に従ったと言われている。しかし今はどうか。情報は多くても知ろうとしなければ全く同じではないのか。

妻の話をする男

妻や彼女の話をする男っていますよね。

もちろんそれらはフツーに話題なんじゃないのと思うかもしれませんが、男同士ならともかく、女性の前でそういう話をするときは

「俺には最愛の妻(彼女)がいますから、あなたには興味ありません、ていうか手は出しませんからご安心ください、ていうか俺を誘惑しないでね」というメッセージだと私は受け取る。

その話をほかの女性にしてみたら「それは考えすぎでしょう」と言われたけど。

バリアを張ってる気がするんですよね。これ以上近づくなサイン。

人によっては妻や彼女を紹介してくれる人もいる。これなんか決定的でしょうね。あーあ、って思います。この人私には近づきたくないんだ。興味ないんだって。聖人君子の良き夫アピール。ガッカリですね。

こんなこと書くと不倫願望かいと取る人があるけど、願望とか奨励とかではなく、男と女の間にグレーゾーンを残しておきたいんですよ。「もしかしたら」ってやつ。男性はそういうの大好きかと思ってたけどね。こと妻(彼女)となると、怖いんでしょう。

人生なんて短い。パートナー以外の異性と話す時間って貴重だと思いませんか? 私はその時間も大切にしたい。いろいろ面白い話が聞けるからね。まあでもそこに面白さを感じられるかどうかは、その人の感性なんだろうなぁ。

好きなように生きる(「珈琲と煙草」シーラッハ)

 私たちは悩んでいる人に向かって、好きなように生きればいい、などと軽く言うことがある。

 それができれば苦労はないさ。

「珈琲と煙草」(フェルディナント・フォン・シーラッハ著/東京創元社) 

 弁護士出身の作家の書くエッセイ。この中にクラシックカーを買う男の話が出てくる(著者なのかもしれない、はっきりとは書いていない)。

 「こんな平均的でつまらない、無価値な車を修復させる人なんていませんよ。こんな車じゃ転売は無理だし(中略)クラシックカーが欲しいなら、もっと格好のいい車を選んだほうがいいでしょう」と車工房で言われ、男はこう答える。

 「想定された耐用年数をはるかに超えたものが好きなんだ。この車をだれも評価していないというところがまたいい。それに転売する気は毛頭ない。これは私が乗る最後の車で、できるかぎり乗り続けたい」

 いいでしょ?  これが好きかどうかでこの本を好きかどうかも分かれる気がする。このくだりを「つまらない」と思う人は読まないほうがいい。

 同じ著者の「コリーニ事件」(創元推理文庫)にも恐らく同じ車種と思われるクルマが出てくる。思わずニヤリとしてしまう部分だが、一般的に値段が高く多くの人が価値を認めるものを好きだと思わない、そんな人を偏屈とも呼ぶが、私はそういうタイプの人が好きなのかもしれない。

 この話にしみじみと「いいなあ」と思ったりするのは、どれだけ私らが目に見えない息苦しさ、縛り、不自由さに絡めとられて生きているかという証拠でもある。自分の好きに生きればいいって? 好きにできることはものすごく限界があるし生まれてきたこと自体がすでに好きにできないことじゃないか?

 そんなとき、忘れていた喜びや幸せを思い出させてくれるもの。それは私には読書だし、あなたにはまた何か別のものがあるかもしれないね。

マスコミを罵る人たち

私くらいの年代の男性たちが口を極めてマスコミを罵っているのをよく耳にする。私は内心「いまさら」とバカにしている。今頃罵っている人たちはこれまでマスコミが書いていることをそのまま信じていたのでしょう? まずそこを認めてほしい。「自分は今までマスコミの書いていることをそのまま信じていました。それ以外のルポライターなどの労作は知らずに生きてきました」と。

太平洋戦争の頃、マスコミが国の宣伝機関となって国民に「いけいけドンドン」と戦争に駆り立てたということを知ったのは私もほんの十数年の間のことだ。驚いた。マスコミというのは、国の宣伝機関にすぎないのか。組織というものは普通の企業でもマスコミでも営利を追求する以上国の方針に逆らえないし取引先に配慮する。そのためには国にお追従して生きていくしかないのだろう。

「私の中の日本軍」(山本七平著/文春学藝ライブラリー) には著者の見聞きした旧日本陸軍の実態、そしてマスコミが新聞に発表した「百人斬り」記事への反論が丹念に書かれている。丹念過ぎてしつこいけれども反論だから仕方ない。それ以外にもさまざまな興味深いエピソードで綴られる。ご自身のことも赤裸々に書いておられる。普通の戦記だと恐らく「死んだ戦友や上官に配慮してここまでは書けない」という部分だ。

昔も今もそうだが、書いてしまったことは「真実」と受け取られても仕方がない。というか普通の人は真実だと思うだろう。私だって四十歳近くなって趣味で模型を作り始めて歴史の本をひもとくまでは「自虐史観的な考え方」であり、憲法と矛盾しているので自衛隊は違憲でありいらないと思っていた。しかしそれは何も本を読んでいなかったからである。原発や公害問題などの社会問題に関しては十代の頃からある程度の興味があり本も読んでいたが。マスコミやテレビがそれらの社会問題を掘り下げて追及しているとは思えなかった。

本当に読むべき本は何なのか、真実を書いているのは誰なのか、真実はどこにあるのか。自分で考えながら読まないと単に本に騙されることになりかねない。しかし自分で考えるということの難しさよ。これこそいちばん頭を使うことじゃないかと思う。

「日本を破滅させたのは虚報なのだ」そして虚報により本来あるはずの情報が見えなくなるのがいちばん恐ろしいことなのだと著者は言う。

耳をすまし目をこらし脳を最大限に回転させねば。マスコミを罵ってるヒマなんか私にはない。

普通?

先日友人と話していたときのこと。彼女の近所に離婚して実家に帰ってきた女性がいるらしい。「その人さ、子供置いて帰ってきたらしいのよ。信じられる? 普通、夫は憎くて別れても子供とは別れられないわー」

確かに私も子供とは別れられない。でも子供を置いてきたという話はけっこう聞くことがある。その「普通」はどれくらいの人に当てはまるのだろう。

さらに話していると友人の子供は都会の大学を出て地方に就職したのだという。「普通、都会が良いと思うんじゃないの? 若い人は」

ふと思ったんだけど、彼女の言う「普通、〇〇よね」というのは「私が思うに〇〇よね」と置き換えるとしっくりくる。本当は自分の意見なのだ。はっきり自分の意見を言おうや、日本人。

ま、「普通」と言うことで「そうだよねー」という共感が得られやすいってことがある。「私はこう思うんだけど」と言えば「あんたの意見なんかに同調できんわ」と返ってきそう。そしてそれは議論を厭わない他国の人たちの話し方なんだろう。

常に無意識に意見をすり合わせる日本人は・・・普通、そんなこと言わないよね。