行雲流水~きららのブログ

好きな本のことを中心に、日々の想いを書いてみる

怒るべきとき

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 先日、池袋でアクセルとブレーキを踏み間違って数人を殺傷したとされる男の実刑判決が下った。私は快哉を叫び、ビールで乾杯をした。

 でも、飲みながらふっと考えた。殺された人やその遺族、ケガを負った人は相手を恨んだり怒りをぶつけたりするのは当然だが、私が怒るべきところだろうか。

 なぜこの話はこんなに腹立たしいのだろう。

 冷静に考えると私だって間違えることはある。アクセルとブレーキではないにしても。誰だって思い違いで失敗はする。でもこの話が腹立たしいのは、あの男が決して自分の間違いを認めず遺族に謝りもしないことだろう(判決当時)。それでひとびとの怒りは増幅した。ネットで怒りの文章などを見て私の怒りも増幅した。

 だけど、思い切ってこの話を単純にすると、遺族やケガをした人は怒ってもいいけれど、私が怒ってどうなるのか。私が怒るべきはもっとほかにあるんじゃないかなと。

 太平洋戦争中の特攻隊のことを調べていても感じるけれども、特攻に出撃して戦死した人の無念さは言うまでもないが、あとに残された家族の辛さ、そして出撃したけれど機体の調子が悪いなどして不時着し生還した人が戦後背負わされたもの。それらの苦しみは生きている限り続いたのではないか。亡くなった人の悲劇とはまた分けて考える必要があるのではないだろうか。

 それと同じようなことがこういう交通事故でいつも起きている。死んだ人以上に、生きたまま苦しむ人生を生きなければならない。やりきれないのはそのことなんだと思う。単純な怒りが通り過ぎると、何かそれについて書きたくなる。書くと怒りの先にあるものが少し見えてくる。