行雲流水~きららのブログ

好きな本のことを中心に、日々の想いを書いてみる

わかったような言動

 先日、ネットでこんな文章を読んだ「心の病気に悩む自分に、友達が簡単に「私にもそういうのあるよ」などと病気のことを知りもしないのに簡単に言うのがものすごく辛い」

 なるほどこれはすごく共感できる。

 私の父は少し前に認知症の診断を受け、その後老人施設に入所して亡くなったんだけど、父はいつのまにか私の知っていた父とは違う人になってしまっていた。こうことは家族を認知症と診断された人しかわからない辛さだと思う。厳格だった父がまるで子供のようになってしまったことを私はなかなか受け入れられなかった。

 そのとき福祉施設で働いている知人が「ああーわかるわかる、認知症ってこうなんだよね」と職業上の知識をベラベラと話した瞬間、心の奥底から思いもよらない激しい怒りが湧き上がってきた。

 「お前なんかに何がわかる」

 私の気持ちなんかわかるわけない。いくら知識があっても、何百人の入所者の世話をしても、家族が認知症になった人の気持ちなんかわかるわけない。さらに追い打ちをかけるように「かえって良かったね、お母さんと二人で仲良く入所してくれたんなら、かえって良かったじゃない」という。

 良かった良かったと連発するのにも腹が立った。それは私が言うことであって、他人が言うことではない。

 こういうとき、かけてほしい言葉は「そうだったのね、辛いだろうね」というような、受け止めるだけの言葉である。経験のない人はわからなくて当たり前なのである。わかるわけがない。わからなくていい。単に受け止めてほしい。ちょっと大げさにいうと寄り添ってほしい。いや、そんなお前なんかに寄り添いたくもねぇよ、というなら、最初から変な同情心を表現した言葉なんかかけなくていい。 まったくこの世の中、わかりもしない奴のわかったような言動が多すぎる。