行雲流水~きららのブログ

好きな本のことを中心に、日々の想いを書いてみる

山の本が好き。

お酒が好きというと、大酒飲みかと思われる。男好きだというと、毎晩男を漁ってセックスにふけっているかと思われる。同じように、本が好きというと、家じゅうが本で埋まっているのではないかと思われる。

でも私はそうではない。酒は好きだけど少ししか飲めないし、男好きだけどセックスする相手は滅多にないし、本は好きだけれど家に置いてある本はほんの少しだ(定期的に処分している)。

山の本も好きだけれど、登山なんかしたこともない。それでも山の本が好きでもいいではないか。

なんでだろうね。登山は体を動かすという意味ではスポーツのようにも見えるが、他人と競い合うのではなく自分で考えて体力や時間を配分しキツイ中に楽しさ面白さを見出す。そういう過程が読んでいて面白いのである。何となく人の生き方そのもののような気もするし、相手が山や自然ということになると、人間は心が解放されて素のまま有りのままになるせいか、たくまざるユーモアものぞいたりする。

大金を儲けるとか他人に喝采を受けるとか、そういうことのためではなく自分だけの欲求を満たすための行為。本当の意味で欲望を追求してる人たちの書いたもの(あるいはその人たちついて書かれたもの)。そこがいい。

「瀟洒なる自然」(深田久弥著/ヤマケイ文庫)

「旅情という言葉も次第に日本から消えていくであろう」旅情・・・忘れて久しい、懐かしい言葉。

 

デモをしない

海外のニュースを見ていると、海外では何かとデモ行動をする様子が報道される。もしかするとマスコミが日本国内で行われているデモをニュースにしないのかもしれないが、私の近所でデモをしているのは見たことがないし、私自身そういう行動をとったこともない。それどころか、友人同士で政治の話をすることも少ない。「政治の話は抜きでいきましょう」とか言うことも多い。なぜかというと、たいてい議論と言う名のケンカに発展しやすく、気まずい雰囲気になるかひどい場合は関係断絶ともなりかねないそのような危険を日本人は回避するのである。

それでふと思ったんだけど、日本でSNSの炎上が多いのはそういうことも関係してるのではないか。普段政治の話などを真っ向から話して自分の思いを吐き出すことが少ない。おまけにもともと喜怒哀楽を表現しない国民性。これではストレスがたまって当然だよね。人は何かを聞いたり見たりしたときに、本当は何かの反応や行動を起こしたくなるのは当然である。

そこにネットという匿名空間があったらこれはもう書かないわけにいかないでしょう。相手もどこの誰かわからんわけだから気が大きくなって「何言ってんだお前、違うじゃねぇか、本当は〇〇なんだよ!!」ばかりに他人のツイートや記事にコメントする。

政治の話や社会問題も、フツーにどんどん話せる日本にならないかなあ。色んな考え方の人が激突して面白いトークが炸裂する国にならないものか。

私は難しいことはわからないが、たぶんこれは教育が関係しているのだろう。他人と意見を戦わせる技術。必要に応じてジョークをきかせてムダな小競り合いは避ける技術。これらを早いうちに身につけたかった。相手の話に単に激高して反論するだけの自分がときどき嫌になる。

美人は得か?

美人は得か? 

この世に男がいる限り美人は得だと思う。そういうことなのだ。それがすべてでそれ以上でもそれ以下でもない。

美人に優しい声音で話したり、ほかに女がいてもつい美人のほうを向いたり、美人に何か頼まれて断れなかったり、美人をちょっと見ただけでその日はずっと気分が良かったり・・・・そういう経験のない男はいないだろう。

そういう男がいる限り、美人は得である。

しかし「チヤホヤされる」「じーっと見られる」「優しい言葉をかけられる」「愛想よく接してもらえる」というようなことを得と思うかどうかは人によって違うだろう。チヤホヤされても「ウザい」としか思えないとか愛想よくしてもらっても全く気づかない人はうれしくなんともない。

さらに、多くの場合女性は「自分が好ましいと思うような男性に親切にされるとうれしいが、キモい男からどんなに優しくしてもらっても単に不快なだけ」ということもある。そして女性が好ましいと思う男なんて十人の中に一人いるかどうかだ。

たぶん女性が誰とでもセックスすると誰の子かわからなくなって困るので、女性はあまり色んな人を好ましいと思わないような脳のつくりになったのだろう。でもそれは昔の話、今はもういちいちセックスするわけでもないし、もっと多くの男性を「この人いいなあ」と思えるといいのに、なかなか「いいなあ」と思えない。自分としても残念です。

性善説

性善説、性悪説、という言葉がある。厳密な哲学的な意味はさておき普段の話の中では「コイツももともとは悪いヤツじゃないんだ、性善説というのが本当なら生まれたときには良い心を持ってたはずだ」などと言うわけです。

でも最近思うんだけど、善ってなんだ。悪ってなんだ。何が正しくて何が間違ってるか、そんなことがわかるのは神様だけじゃないのか。人間に何がわかる?

この人の考えは悪だとか、この人は善人だ、などと他人を決めつけられる言い方に驕りを感じる。自分の考えていることは善であり正であるという無意識の驕り・・・。本当はそんな単純なものではないとうすうす気づいているにもかかわらず。

たとえば「人は良いことをしながら悪いことをするのさ」と池波正太郎は長谷川平蔵に言わせている。

「プリズン・サークル」(坂上香著/岩波書店)

 日本のある刑務所では受刑者同士が互いの体験について語り合うというプログラムが行われている。その様子を10年に渡って取材した著者の書いた本。ここに答えはない。正しいこと間違ったこと、それを教える本ではない。ただ、いろんなことを考えさせる本ではある。

なぜ人は一人ひとり違う環境のもとで生まれてくるのに、同じ価値観や同じ社会で生きることを強いられるのか。なぜ他人の肉体を傷つければ裁かれるのに、他人にどんなひどい言葉を浴びせかけて心を責めさいなんでも罪に問われることはないのか。考えてみれば理不尽なことだ。網からこぼれてしまう人のことを見捨てて良いのだろうか。性善説ではなく掬い上げる物語、私はそちらに期待している。

カネで解決

安倍元首相を銃撃した男は、母親が統一教会にハマって多額の献金で家庭が破綻したというようなことを供述しているらしいが、改めて新興宗教に深くハマるのは恐いと思った人もいるに違いない。彼らの家族に何があったのか、どこで歯車が狂ってしまったのかはわからないが、もしかすると単にどこかに相談すれば解決しただけのことじゃないかと思うのは素人の浅はかさだろうか。

しかし数千万円などという多額の献金には一瞬驚いた。が、待てよ、どこかで聞いたような・・・そうだ、家族に放蕩息子などがいてそのために家族が崩壊したという話はよく聞くではないか。

私の親戚にも放蕩息子にどんどん金をつぎ込んで退職金まで全部持って行かれ、あげくの果てに自死した人がいる。皆様のまわりにもそういう人が一人くらいいるんじゃないだろうか。あるいは、ダメ男に貢ぐために会社の金を使い込んだ女、着物や宝石を買うのために数千万円の借金ができた女、さらには趣味が高じて金と時間つぎ込んでとうとう妻に逃げられたとか。私の身の回りで聴いた話だけでも枚挙にいとまがない。

すごく乱暴な言い方かもしれないけど、すべて何かにハマった結果だと言えないだろうか。ギャンブルや麻薬に限らず、人間って本当に色んなものにハマりやすい動物だと思う。もっとほかに楽しいことあるでしょ? もっとほかにやることあるでしょ? とハタから見ると思うんだけど、本人は「この人を助けなきゃ」とか「この人のためにしなくちゃ」とか「これがないと生きていけないの」とか、なんかもう周りが見えなくなっちゃう性質があるらしい。

何かというとカネをつぎ込むというのが日本人の性質なのだろうか? 私はお金ないので毎日トイレの掃除しますとか、そういう形で宗教団体に貢ぐということはできないのか。何もかもお金で換算していないか。もはや「カネ教」という宗教かもしれない。

発見感

 最近は、数人で話しているとき「あれって、なんだっけ」みたいな話になったとき、気づくと必ず誰かがスマホで素早く検索している。そして検索結果を示してくれる。

 最初は「小賢しい、いらんことしやがって」と思っていたが、まあ今は何でもその場で検索して意味をみんなで了解するのが当然なんだろうと考えて納得している。

 「アヤメとカキツバタってどう違うのかしら」などという話になったとき、「どうだったっけ」「私知らないわ」とかいつまでも言ってるのが年寄りだ、と聞いたこともある。若い人はすぐに検索するが、私などは知らなきゃ知らないでいいさというスタンスである。

 わからないまま数日、いや数年を過ごしたある日、何かの本で偶然アヤメとカキツバタの違いを発見する。そのときの「発見感」とでも言えばよいだろうか、あたかも自分だけが知っているような密かな喜びといったらなかった。検索機能はそういう喜びを我々から奪ってしまった。「物知り」という言葉も死語となった。

 とはいえ、こうなったのは私なんかにはどうしようもないし、それも世の流れで、発見感などはもう二度と戻ってこないし、そのことが悲しいわけでもない。ただ「そういう歴史」というだけだ。

セクハラ転じて好かれる男

ときどき、男性と話していて、

「職場で「今日のその髪型カワイイね」とか言うと今はセクハラなんですよね? うかうか人をほめられないって、おかしいんじゃないですか」と言われることがある。

確かに他人をほめることは良いことのような気がする。

しかし、職場は仕事をするところ。ブスだろうが美人だろうが仕事ができればそれで良し。髪型は仕事に関係ない。ほめるとすれば、仕事に関することだけでいい。男性は上司に髪型褒められて嬉しくて仕事がはかどりますか? でも女性は髪型褒められたらイキイキと仕事するだろうなってのは、勝手な思い込み・・・少し大げさに言うと女性蔑視なんです。

逆に、女性を褒めてほしい場面もある。

人間の心というのはセコいもので、相手に気に入られたいとか相手をおだてて何かしてほしいときに褒めることが多い。もちろんそういうのも悪いことではないけれど、何もないときに話のついでくらいでいい。日本人の男は言葉に出すのが苦手というけど、それだけにたまに言葉に出すとものすごく効果がある。普段そばにいる友達やパートナーに「あーなんかそれいいね」くらいの言い方でいい。これはね、ドキっとしますよ。

実は男性ほど褒められたい生物はないと思う。褒められたいために、わざわざ高いお金払ってスナックなどに通っているのだから。それがわかってるなら女性を褒めたってよさそうなもんだよねえ。