行雲流水~きららのブログ

好きな本のことを中心に、日々の想いを書いてみる

忘れ去られていく日本の文化よ(「江戸絵画八つの謎」)

 人はなぜ特定の相手を好きになるのかというのは、脳科学の世界でもまだ完全にはわからない不思議らしいが、友人関係だって「なぜか気が合う人」とはどういうことなのか、突き詰めて考えてもわからない。最初はそんなに意気投合しているとは思わなくても長い時間をかけて「すり合わせて」いる気もする。

 本を読んでいるときも、最初から「これは面白い!!」と引き込まれるときもあるけど、「なんかちょっと読みにくいな」と思いながら読んでるうちにだんだん引き込まれ、最終的に面白いなというところに到達する本もある。

 

 「江戸絵画八つの謎」(狩野博幸/ちくま文庫)もそう。私には読みにくい文章に思えた。もちろん私の江戸絵画に関する知識がほぼ皆無だということもあると思う。それが第5章あたりからわずかにスムーズに読めるかなという気がしてきて、第7章の葛飾北斎では読書の喜び爆発。へええ、そうだったんだ。知らなかった日本の歴史。

 そして狩野先生の怒り爆発もある。こんなに怒っていいの? 誰かのことを暗に書いてるよ。これはちょっと嫌悪と紙一重の書き方だけど、最近の私は、怒りたいときは怒ればよい、という気分になってきている。変に我慢することはない、「これはイカン」と思えばちゃんと理由を書いて説明すればよいのだ。

 それにしても、人間とはなんと嫉妬深いものよ。ネット炎上・誹謗中傷も何のその、昔の人もエグい。人間の脳味噌、何とかならんものか。

 プロフィール見ると狩野先生は九州人だった。ああーやっぱそうか、ふふふ(もちろん私も九州人であるのは言うまでもない)

 

税務署の仕事

 先日、確定申告のため税務署に行ってきた。つくづく思うけど、税務署の仕事っていったいどういうところが面白いのだろう。もしかすると外からはうかがい知れぬ喜びがあるのかもしれないが、私には全くわからない。

 数年前、「きょうの仕事は楽しみですか」とかいう広告コピーが炎上したと聞いた。なんでそんなのが怒りの対象になるのかわからなかった。「あなたの仕事ってバカバカしいですね」というコピーなら腹が立つのもわかるが。

 そもそも仕事なんか楽しいわけがない、生きていくために必要だから仕方なく働いているんだから、楽しいわけないだろ?という人がけっこうな割合でいるのだろう。

 本当はやりたくないことをやってるというわけだ。これは不幸である。ローマの奴隷と同じである。奴隷と違うのは逃げても殺されはしないだけで、自殺する自由があるということだ。それで日本では自殺する人が多いのか。やりたくもない仕事をやらざるを得ない毎日だということは、生きたくもない人生を生きてるってことになるから。

 税務署の人たちはやりたくもない仕事をやってるわけではないと思う。ただ私にはわからないというだけなのだろう。面倒くさい書類を見ると喜びを感じ、脱税を暴くと心が震えたりもするんだろう。

 考えてみれば私のように大して仕事もせず昼間っから模型部屋に転がって空を見ながらくだらないことばかり考えたり、プラスチックをわざわざバラバラに分割したパーツを苦労して組み合わせて色を塗ってもそれは何かの役にも立たずお金にもならない、単なる時間と労力の無駄であるにもかかわらず嬉々としてその作業に打ち込んでいる、というのも他人から見ると全く意味がわからないことであろう。

 でもそこに仕事の謎の答えがあるような気がする。自分が面白いと思うこと。それがあればどんなにつまらなさそうな仕事でも面白い仕事だと言えるんしゃないか。

男という別種の生物

 趣味でプラモデル作りを続けている。もう20年以上になる。

 その中で多くの男に出会い、単なる知り合い以上の「友人」という人もできて長く付き合っている男もいる。

 先日その話を妹としていたら、「よく男と友達なんかになれるねぇ、しかもそんな長い間、飽きずに付き合うって信じられん」と言われた。

 それは同じ趣味を介しているということもあるのはもちろんだけど、よく考えてみるとそれだけではない気がする。

 突き詰めていうと、珍しい虫や花に興味を持つのに近いのではないか。

 身の回りにある花だと珍しいとは思わないけれど、見たこともない花だと「これはなんという花だろう」「鉢植えにできるのかな」等疑問に思うし調べてみようと思うだろう。私にとって異性というのはそういう存在である。その生態が興味をそそる。知りたくなる。

 ただ、自分から「この人面白いな知りたいな」と思う個体(笑)とはとことん付き合ったりするけど、向こうから好意を示され近づいてくる人は残念ながら私からはあまり興味を感じないことも多い。相性というのはそういうもので、趣味が合うからといって誰とでも相性がいいわけではない。

男性は女性に対しては趣味が合うから話をしたいということもあるだろうけど「この女とやりたいな」的な性的にそそる存在ということで近づいてくると思うけど、私は「なんか珍しい生物」だから生態を知りたいという感じ。性的にそそるからこいつに近づきたいというだけのことは皆無。

 自分と違うものに興味を持つ。それが人間の不思議なところかもしれない。そんなのどうだっていいやん、と他の動物なら言うだろう。でも私にはどうでもよくない。一日中眺めていても飽きないね、男という別種の生物を。

 

弱ってるときの対処法

先日気づいた。

「男って弱ってるとき声を掛けてほしくないんじゃないか」

ほっといてほしい。慰められるのは嫌。弱ってる姿見せたくない。ラインの返事なんかしたくない。いろいろ言われるのはウザい。でしょ?

あーあ。こんなことも気づかずにいったい何年生きてるんだ私。

女は弱ってるとき、凹んでるとき、声をかけてほしいです。絶対にそっとしてほしくない。構ってほしい。どうしたのって聞いてほしい。ラインしたい。

それで、「どしたの〇〇ちゃん、元気ないねーなんでも俺に話してごらんよ」なんて言って、女の愚痴を聞いてやるふりしてまんまとエッチまでしてしまう悪い男がいる。ま、悪いのか優しいのかわかりませんけどね。だってこちらは聞いてもらうことにものすごく大きな意味があるので決して女から見たら悪い男とは言えない。逆に女が落ち込んでいるときに距離を置いてしまう彼氏は「あ、この男いいや」ってなる。

ここが根本的に違うのも男と女の仲をややこしくしている原因なんだろうなあ。

男が分かち合いたいのは自分がうまくいってるときだろうね。「あなたって、すごいわねー」と言われたいんですよ。その一言でまた何百キロも走り続けることができる。

怒鳴るよりジョークだ

少し前にネット上で話題になった「ポテトサラダ事件」というのを覚えているだろうか。

ある女性がスーパーの総菜売り場でポテトサラダを買おうとして手にすると、そばにいたオッサンから「ポテトサラダくらい自分で作れ」と怒鳴られたという話。まあネット上の作り話かもしれないが。

意味がわからないという人もいるかもしれないので解説すると、オッサンからしたら「女性は家で料理をするのは当たり前、ポテトサラダなんか庶民的な料理だから自分で作れ」ということなのだ。

この様子を見ていた人がツイッターだか何かに投稿した話だったと思う。彼女は「ひどい!!」とは思たけど何も言えず自分もポテトサラダを目の前で買ってやって溜飲を下げたという話だった。

こういうとき、話だけ聞くと「そんなオッサンに何か言ってやりゃいいのに」とか思う。でもそれは話を聞いた人が言えることであって、その場にいたら何も言えないのが日本人じゃないだろうか。

できれはジョークにひっかけて、そのオッサンにバシっと一言言い返せたらどんなに気持ちいいだろう。そして周りの人もパチパチパチと拍手くらいしてもいい。

話すことのほとんどない現代の店での買い物。味気ないのも確かだ。そのオッサンも「え、あなたポテサラ自分で作るんですか?」とか聞いてほしかったのかもしれない。自慢のポテサラがあるのかもしれない。あるいは「俺の女房のポテサラ旨かったんだよな・・・でも三年前に死んじまったんだよ」とかいう話になって、オイオイ泣き出すかもしれない。そういう寂しくて哀しい人間の一言かもしれない。

そこで誰かが「でもさ、ここのスーパーのポテサラけっこう美味しいじゃん」「ほんとほんと」「おじさんも元気だしてよ」「あたし今日は疲れてるから買ってくけど来週は作るわ」みたいな展開に・・・・ならないか。なったらいいな。そんな日本にしたいな。私らみたいな中高年は、怒鳴らずに若い人と話をしようじゃないですか。この場合は「こんなポテサラ買わんで俺の作ったポテサラ食ってみろ」だと面白かった。

この話をしたら「そんなオッサンどうでもいいじゃないですか、そんなキモイ年寄りの言うことなんか気にするだけ時間の無駄」とかいう人もいた。どうでもいい・・・それもまた日本人の言いそうなことだ。

 

妄想は妄想のままで

「夢は強く願うと、実現する」と聞いた気がする。若者は夢を持たないとだめだ、と言ったりもする。

夢と言ってもいろいろあるけれど、ある意味で私は夢見がちな少女だった、そして大人になってもまだ。いつも何かを夢見て・・・というか、妄想の世界に生きている。何か考えていないことのほうが少ない。

空想にふけっているというほうが正しいかもしれない。そんなときはハタから見るとぼんやりしているように見えるらしい。本を読んだあとなど特に、物語の世界に浸って空想に溺れていると、母に「眠いの?」と聞かれ、けっ、こんな女には私の空想の世界などわかりゃしないんだろうなといつも腹立たしく思ったものである。私は幼いころから想像力の少ない人を軽蔑している。

「バカと無知~人間、この不都合な生きもの」(橘玲著/新潮選書)を読むと、夢はあまり強く願っていると脳が満足してしまい実際に実現する努力をしなくなってしまう、ということが書いてあった。なるほど、それは哀しい話でもあるけれど、物事は反対から見てみよう、夢みるだけで満足できるなら本人はそれで幸せではないか。

昼間から空想や妄想に浸っている人は、一般人から見ると昼行灯(ひるあんどん)というかボンヤリした人間にしか見えないと思うけれど、実は本人はとても幸せな世界に生きているのではないか。そんな気がしてきた・・・というところが実に幸せな奴ですよ、私って。

逃亡願望

最近は紙の新聞の書評で気に入った本をピックアップして読むことが多い。この本もそう。作者の名前も知らなかったけど逃走劇が面白そうだなと思ったから。

確かに前半の逃走劇は面白い、一気に読ませる。導入のネットからの入り方もリアルで引き込まれる。しかしそれにしてもなぜ人は逃亡する話が好きなのか。何かから逃走したいという密かな欲望があるのか。逃亡するということは現代社会ではマイナスだと思われる言葉だけれども、少し前まではそんなにマイナスでもなかったのではないか。ほとぼりがさめるまで姿をくらますのは、よくある話だったのかもしれない。あるいは出家したり世捨て人とかご隠居とか、距離的にはあまり逃亡していないが社会の中心から離れるという考え方。

私は昔から世捨て人(中世の概念)という言葉に強く惹かれる。憧れだけで実行はできないけど、そういう思いは多少なりとも人の中にあって、だから逃亡していく話、と聞くと興味を持ってしまうのではないか。いやもっと飛躍していうと、昔々ホモサピエンスが遠いアフリカから移動を始めたとき、必ずしも勇気のある者たちが群れを離れていったわけではないらしい。むしろ食っていけなくなった者たち、弾き飛ばされた者たちが逃げて逃げてたどり着いた先が極東だった・・・のではないかという考察もあるという。というと、逃げた人間は劣っていると思われるかもしないが、そういうことで簡単に優劣をつけるのは早計だと思う。逃げたのは劣っているからなのか、それとも賢い選択なのか・・・

この話では主人公はそんなに遠くまでは逃げないけれども、距離が離れていくたびにさまざまな衣装がは剥ぎ取られていくのが読む者に一種の浄化作用をもたらす。

「俺ではない炎上」朝倉秋成 双葉社